奈良市 ならまちの社寺民家の鬼瓦

ならまち
奈良の旧市街地は、京都・金沢と並び、太平洋戦争の戦災をまぬがれた古い街です。

710年の平城京遷都の際、飛鳥(明日香村)の法興寺(飛鳥寺)が元興寺(がんごうじ)として平城京に移され、この地は「平城(奈良)の飛鳥」 と呼ばれました。その元興寺の旧境内の南4分の一程度の地域が「ならまち」と呼ばれます。
鎌倉時代には、大寺院の保護のもとに北市・南市、室町時代には中市が開かれ、商業が発達しました。さらに社寺と結びついた手工業も発達し、住人たちの経済力、政治力が向上しました。室町時代後半に下剋上の風潮で支配層が混乱したため、住人たちはしだいに社寺の支配を離れて自治意識を強め、町民として自立するようになりました。

安土桃山時代には、郡山城の豊臣秀長の支配下におかれ、秀長が強大な興福寺の勢力を抑えるため、ならまちの商業に統制を加えました。そのため、ならまちは沈滞しますが、江戸時代に入って奈良奉行が置かれると、晒(さらし)や酒、墨などで産業の町として活気を取り戻します。
江戸中期には猿沢の池付近が「お伊勢参り」の宿場町として栄え、商業の中心地になります。
戦後、閑静な住宅地になりますが、1980年代に20代の青年たちが中心になって「まちづくり」に取り組み、今日のにぎやかな観光地になってきました。

江戸末期から明治にかけての町家の面影を伝える「ならまち」は何か懐かしさを感じさせ、何度でも訪れたくなります。それはこのまちに溶け込んでいる大小さまざまな寺院の屋根から、たくさんの鬼面文鬼瓦が町を見守っているからかもしれません。

この項では整理の便宜上、ならまちとその周辺の鬼面文鬼瓦の数が比較的少ない寺社などをまとめました。現存するかどうか不明な鬼瓦には、撮影年を付けてあります。興福寺、元興寺、金躰寺などは、独立した項目にしてありますので、ご了解ください。どこのどの鬼も私の愛する大事な宝物です。

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