奈良市 興福寺の鬼瓦

興福寺(奈良市登大路町)
藤原鎌足夫人の鏡大王が669年、いまの京都市山科区に創建した山階寺(やましなでら)が起源です。壬申の乱のあった672年、山階寺は藤原京に移り、地名から厩坂寺(うまやさかでら)と称しました。
710年の平城遷都に際し、鎌足の子・不比等は厩坂寺を平城京の現在地に移転し「興福寺」と名付けました。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ、もともと藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになりました。
鎌倉・室町時代の武士の時代になっても僧兵を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けました。
興福寺は、たびたび火災に見まわれましたが、その都度再建を繰り返しました。中でも1180(治承4)年、源平合戦の最中に行われた平重衡の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失しました。
現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものです。
古都奈良のシンボルともいえる五重塔は、1426(応永33)年頃の再建で、高さ50mは木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目の高さです。
現存する堂宇で最古の北円堂(国宝)は平城京を見渡す一等地にあります。1210年ごろ再建されたもので、日本にある八角形の建物の中でもっとも美しいといわれます。鎌倉期の再建ですが、創建当時の姿をよく表わしているとされます。
三重塔も同時期で、ともに興福寺の最古の堂宇です。
北円堂の鬼面瓦は4隅とも、通例と異なり1の鬼のほうが2の鬼より小さいのが特徴です。南円堂の鬼面瓦にも同じ傾向が見られますが、北円堂ほど顕著ではありません。東大寺でも同様の例が見られますが、全国的には珍しく、例外的です。
東金堂は1415(応永22)ごろ、南円堂は1789(寛政1)ごろの再建です。いずれも奈良時代の建築様式にならい、特徴と雰囲気をよく残しています。
国宝館にある多くの文化財のうち、ここで特に注目したいのは木像立像の天燈鬼と龍燈鬼(ともに国宝・鎌倉時代)です。四天王に踏みつけられている邪鬼を独立させ、仏前を照らす役目を与えたとされます。阿と吽、赤と青、動と静を対比して表現した鬼彫刻の傑作です。
鬼の立体的全身像は、観光地などにある今風のキャラは別として、めったにありません。愛媛県今治市立菊間かわら館に「常光寺子供鬼坐像」と同「立像」があるのが貴重です。
絵では、俵屋宗達筆の 屏風画「風神雷神」(京都・建仁寺)や、御伽草子の「一寸法師」「酒呑童子」などの挿絵に、鬼の全身の姿があります。

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