oni3 のすべての投稿

鬼さんこちら 16 埼玉県 深谷市 源勝院

おいしい深谷ネギの産地であるこの地の国道17号沿いに、源勝院があります。この岡部の地を領地にした安部(あんべ)家の菩提寺です。             (埼玉県 深谷市 源勝院 山門全景)

(埼玉県 深谷市 源勝院 山門大棟東)

境内の案内板によると、徳川家康は1590年(天正18)関東入国とともに、初代安部弥一郎信勝に岡部領を与え、信勝が源勝院を開きました。家康と石田三成の対立が激しくなったため、信勝は家康に従い大坂城に詰めていましたが、1600年(慶長5)、大坂城で死去しました。             (埼玉県 深谷市 源勝院 本堂全景)

(埼玉県 深谷市 源勝院 本堂東部1・2鬼)

2代信盛から13代信寶(のぶたか)までの12基の屋根付き位牌型の墓碑が、東向きに南から北へと順に並んでいます。

           (埼玉県 深谷市 源勝院 本堂大棟東)

(埼玉県 深谷市 源勝院 本堂東南1鬼)

山門の鬼は、年季を経た大先輩、という感じでしたが、本堂の鬼たちはいつ代替わりしたのか、撮影した2005年11月現在では、まだ新進気鋭の感じで、青空に向かい堂々と目を見張っていました。

鬼さんこちら 15 埼玉県 行田市 清善寺 忍城(おしじょう)内

秩鉄行田市駅と水城公園の間くらいに位置する曹洞宗の寺院で、創建は15世紀と伝えられる古刹です。閑静な境内は時間がゆったりと流れています。
映画『のぼうの城』に登場しています。            (埼玉県 行田市 清善寺 本堂全景)

1440年(永享12)に当地の豪族成田刑部少輔顯忠(清善斎全中)により平田精舎として創建されたと伝えられます。時の城主成田氏15代親泰は、顯忠の死を悼み、清善寺を建立。1533年(天文2)成田氏16代長泰により再興、翌年成田龍淵寺5世宗佐和尚を迎えて忍城(おしじょう)内に開山しました。慶長9年には寺領30石の御朱印状を拝領しています。本尊は釈迦如来三尊仏です。           (埼玉県 行田市 清善寺 本堂南東1鬼)

2012年公開の映画『のぼうの城』の舞台として一躍脚光を浴びた行田市の浮き城・忍城は、 戦国時代・石田三成の水攻めにも落城しなかった関東七名城の一つ、秀吉が攻めて唯一落とせなかった城といわれています。           (埼玉県 行田市 清善寺 本堂南西1鬼)

コミカルな歴史映画「のぼうの城」は、1590年、豊臣秀吉による天下統一の最終章となった小田原攻めの際、2万人の軍勢で小田原城の支城を攻略する任務を負った石田三成に対し、500人で忍(おし)城(埼玉県行田市)を守りきったお話です。

その主役となったのが、領民から「でくのぼう」を略して「のぼう」と親しまれた成田長親(ながちか)。子供からも、「のぼう」と呼び捨てされるほどの無才ぶりを見せましたが、ある日突然転がり込んできた城主の地位に戸惑いながらも、特異な能力を発揮して領民の心をつかみ、2万人の石田軍に抵抗。北条氏の拠点である小田原城が先に落城した結果、忍城は落城しなかったという結末でした。

(埼玉県 行田市 清善寺 本堂北西1鬼)

映画とは無関係であるとしても、ここの本堂の鬼瓦たちはややマンガチックな面相をしています。鬼瓦イコール怖い顔、という常識から離れた作品を楽しむ施主や鬼師が増えてきたことを示しているのでしょう。

 

鬼さんこちら 14 埼玉県 行田市 遍照院(へんじょういん)

寛仁年間(1020)の草創といわれる古刹で、寺領25石を与えられた御朱印寺です。もとは山城国(京都)醍醐三宝院末で、御室御所仁和寺の檀林となりました。              (埼玉県 行田市 遍照院山門 西)

奥州の平泉城主藤原秀衡が、守り本尊の薬師如来に心願を立て祈ると快癒し、その薬師如来像を牛車に乗せ向わせたところ当地で牛が亡くなったため、仏縁の地として創建されたのが、埼玉県行田市の薬師堂といわれます。1604年(慶長9)には徳川家康より薬師堂全体に25石の御朱印地を拝領、多くの塔頭、末寺を擁しました。真言宗智山派に属し、総本山は京都智積院です。         (埼玉県 行田市 遍照院山門 西南降り鬼)            (埼玉県 行田市 遍照院山門大棟 西 )         (埼玉県 行田市 遍照院山門 北東降り鬼)

薬師堂をはじめとする七堂伽藍は1590年(天正18)の石田三成の忍城水攻めの際、兵火によって焼失し,その後、1793年(寛政5)に江戸時代の技法をこらした総けやき造りの薬師堂が再建されました。また、本尊の薬師如来座像は行基菩薩が彫刻したものとされ、像高86センチ桧木の寄木造り二重円光飛天光背、平安後期中葉(1100)の製作と推定され、温容端麗な藤原仏の代表作とされます。             (埼玉県 行田市 遍照院本堂大棟南 )           (埼玉県 行田市 遍照院本堂玄関全景)            (埼玉県 行田市 遍照院本堂玄関正面 )

(埼玉県 行田市 遍照院本堂玄関正面)

境内にはウメ、サクラなどの花木をはじめ、シイ、ケヤキなどの大木のほか、カエデの木も多く、いかにも古刹らしい趣です。4月半ばからのボタンはなかなか見事。10月末~11月半ばの紅葉では、イロハモミジ(タカオモミジ)やイタヤカエデもあって、鬼たちも息をのむほどです。

鬼さんこちら 13 埼玉県 児玉町 玉蓮寺・八幡神社 板碑研究の千々和実先生

埼玉県児玉町の鎌倉街道上道はJR八高線児玉駅前の街中を通っています。玉蓮寺と、隣の八幡社が、寄ってみたい所です。              (埼玉県 児玉町 八幡神社 神門)

東石清水八幡宮は源頼義、義家親子が奥州征伐に向かう際、この地に立ち寄り、帰陣の折り、再びこの地に立ち寄り社殿を建立したことから始まると伝えられます。境内には江戸時代の高札場跡があります。現在の建物は本殿・幣殿・拝殿が連結した複合社殿です。              (埼玉県 児玉町 八幡神社 神門)               (埼玉県 児玉町 八幡神社 神門 )

(埼玉県 児玉町 八幡神社 神門)

八幡社の隣りが玉蓮寺(ぎょくれんじ)です。
玉蓮寺前の右手の一角に日蓮上人御足洗の井戸と呼ばれる井戸があります。1271年(文永8)に佐渡に流罪となった日蓮上人は鎌倉から鎌倉街道上道を通りここまでやって来ました。その折りに、この土地に館を構える児玉六朗時国が彼の邸宅を日蓮上人の宿として提供、上人はこの井戸で足を洗ったと伝えられます。

             (埼玉県 児玉町 玉蓮寺 本堂正面)

上人は赦免されて鎌倉に帰る途中に再びここに立ち寄りました。時国は上人入寂後、家の傍らに草堂を建て、自ら日蓮の像を刻み、1281年(弘安4)、邸宅を持仏堂としたのがこの玉蓮寺なのだそうです。             (埼玉県 児玉町 玉蓮寺 本堂全景)

玉蓮寺を有名にしているのは板碑(いたび)群です。本堂裏手の墓地に高さ2メートルもある板碑があります。釈迦如来を示す梵字、1304年(嘉元2)の紀年銘が刻まれている釈迦一尊種子板碑で、貴重な文化財です。手前に阿弥陀三尊種子の小板碑が二基、向かって左奥に改刻題目板碑、左端に元徳二年銘板碑、右奥に阿弥陀一尊種子板碑が立っています。           (埼玉県 児玉町 玉蓮寺 本堂大棟西)

板碑の研究で優れた業績を残された著名な学者の一人は、千々和(ちぢわ)実先生です。『武蔵国板碑集録』雄山閣出版 1972、『上野国板碑集録』西北出版 1977、『高山彦九郎全集』高山彦九郎遺稿刊行会1943-1978など、多くの出版をされました。

千々和先生は、漢学者だった私の父、富山昇(1944年逝去)と同じ東京文理科大学卒業で、群馬県師範学校教諭を共にされました。父の死は私が小学2年、妹節子は生後9か月の乳飲み子でした。子供4人の母子家庭で必死で生きていた私たちを何かと激励してくださり、姉や私の就職先探しなどでもご尽力くださったと記憶しています。1967年、東京学芸大学教授を定年退官されたあと、都留文科大学教授、上武大学教授などを務められました。

これらの写真は1989年10月24日に撮影した写真です。屋根も鬼瓦も取り替えられているかもしれませんが、ご容赦ください。

 

 

鬼さんこちら 12 熊本市 本妙寺 加藤清正の廟所

熊本城北西にある本妙寺(ほんみょうじ)は、肥後熊本藩の初代藩主・加藤清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があることで知られています。長い石段を登ると清正の銅像がありますが、熊本地震で損壊しました。               (熊本市 本妙寺 法皇閣 北正面)

巨大な仁王門は鉄筋コンクリート造です。門をくぐると桜並木の長い参道が続き、両側に12の塔頭が並んでいます。              (熊本市 本妙寺 法皇閣 1層北西)

参道を進むと右手に本妙寺の大本堂(勅願道場)があり、その先には胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれる急勾配の石段があり、多数の石灯籠が並んでいます。              (熊本市 本妙寺 法皇閣 1層南西)

毎年清正の命日である7月24日の前夜、僧侶や信者が写経した法華経を奉納する頓写会(とんしゃえ)が行われ、10万人といわれるの参拝者で賑わいます。

(熊本市 本妙寺 法皇閣 1層南東)

1585年(天正13)、加藤清正の父・清忠の冥福を祈るため、大阪に開創された寺です。1611年に清正が没し、遺言により中尾山上の浄池廟に清正像を建て、1614年(慶長19)、火災で焼失した本妙寺を浄池廟下の現在地に移転しました。

(熊本市 本妙寺 太地院 本堂 大棟西)

明治時代の神仏分離令によって浄池廟と本妙寺は神社と寺として分けられ、1871年(明治4)に社殿だけが熊本城内に移され、加藤神社となりました。その後、西南戦争で焼失した大本堂と同時に浄池廟の建物も再建され(明治27年)、現在の姿になりました。

(熊本市 本妙寺 延寿院 山門)

熊本地震によって鉄筋コンクリートの仁王門も地震で全体に傾きが生じ、門柱にも亀裂が入り、「立ち入り禁止で、門をくぐることはできない」と伝えられました。石段沿いの墓地の墓石や、胸突雁木に並ぶ石灯籠などの大半は倒壊し、無残な姿を見せている」と報じられましたが、その後の復旧は進んでいるでしょうか。
鬼たちも心配しながら見守っていることでしょう。

           (熊本市 本妙寺 延寿院 山門 大棟西)

加藤清正の軍隊は2度にわたって朝鮮半島を侵略しました。天皇の血筋が百済にあることに始まり、大和朝廷以来の長く深い日本と朝鮮との親戚関係をぶち壊す、ひどい侵略でした。この侵略に抵抗した朝鮮の人々は、寺院を拠点にして戦いました。そのため、朝鮮半島の寺院は清正軍にとことん狙い撃ちにされ、ほとんど壊滅しましたから、したがって、貴重な文化遺産、特に鬼瓦は、みんな粉々になりました。
私は7回、訪韓して、鬼瓦の祖先を尋ねて踏査しましたが、どこへ行っても「日本軍が壊しました。申し訳ありませんでした」と、誤りっぱなしでした。

加藤清正は、鬼瓦にとっても許しがたい破壊者の親分でしたね。

(熊本市 本妙寺 延寿院 山門 南東降り鬼)

韓国の人々はいま、やっと「残っている」と言えるかどうかのわずかな文化財をも、とても大切にして、保存、普及、活用に力を入れています。韓国の国立博物館が、外国人も含めてすべて「入館無料」だというのも、文化を日本よりはるかに大切にする政治を行っている証拠の一つではないでしょうか。

お隣りから学ばなければいけませんね。

 

 

鬼さんこちら 11 宮城県 多賀城博物館 展示鬼瓦

今では、多賀城博物館はなくなり、東北歴史博物館(宮城県多賀城市)になって、3階建ての立派な建物の歴史博物館として幅広い分野の展示が行われています。インターネットで検索したら、今の展示収蔵物には鬼瓦が4点あり、その内鬼面文鬼瓦は「多賀城の鬼瓦」1点だけです。

ここに紹介する展示鬼瓦は、ちょうど28年前の1989年5月24日に私が見学した際、多賀城周辺の瓦として特別展示されていたもののうち、鬼面文鬼瓦を抜粋したものです。 その時、展示では説明が不十分だったり全くなかったりして、学芸員の方々が収集、展示に苦労した様子がうかがわれましたし、照明が暗くてモノクロSSSフィルムでこれがやっと撮れたというのも残念な条件でした。 でも、私は鬼瓦を求めて歩き始めていた時代で、ここでの鬼との出会いはかなり感動的でした。 これらの鬼瓦は今どこに保存されているのでしょうか。丁寧に調査、保存、活用されているといいのですが。

(木造の鬼瓦、鬼面文鬼瓦ではありません。違い羽根紋でしょうか)

古い写真で映像も不良、しかも説明文もなかったりして、可哀そうな鬼たちですが、記録として写真保存だけでもと思い、特にここに掲載することにしました。

鬼瓦さんたちよ、どこかで長生きし続けていてくださいね。

鬼さんこちら 10 岡山県 高梁市 正善寺、頼久寺

岡山県西部の山間に“日本三大山城”の中で最も高所に建つ備中松山城があります。臥牛山頂に建つ備中松山城は現存する天守12城の一つで、400年前の天守閣が残っている貴重な山城です。          (岡山県 高梁市 正善寺 本堂東南降り鬼)

その五万石の城下町が、高梁(たかはし)市。明治になるまで“松山”と呼ばれた町で、高梁川の舟運で栄えた商家など古い町並みが数多く残り、「備中の小京都」とも呼ばれます。             (岡山県 高梁市 正善寺 本堂東南)             (岡山県 高梁市 正善寺 鐘楼全景 )

今では、城下町時代の家並みこそ残っていませんが町筋は残り、町人の鍛冶町と武家の柿木丁に挟まれた短い竪町型の町並みを伝え、南北の道に交差する横町の道は鍵形に折れ曲がって城下町らしさを示しています。           (岡山県 高梁市 正善寺 鐘楼大棟東)

そしていくつもの寺院が当時の面影を残しています。
その一つが正善寺(しようぜんじ)、また頼久寺(らいきゅうじ)です。             (岡山県 高梁市 頼久寺 山門東)       (岡山県 高梁市 頼久寺 山門東北降り鬼)              (岡山県 高梁市 頼久寺 鐘堂東 )         (岡山県 高梁市 頼久寺 薬師堂全景 )

年を経た古武士のような面相の鬼たちが、今でも古城を守るかのように、天下を睥睨し続けています。

(岡山県 高梁市 頼久寺 薬師堂東南)

(岡山県 高梁市 頼久寺 薬師堂東南降り鬼)     (岡山県 高梁市 頼久寺 薬師堂東北降り鬼)       (岡山県 高梁市 頼久寺 薬師堂東北1鬼)

頼久寺から北に行くと、石火屋町の武家屋敷通りに出ます。緩やかな坂道の両側に、白壁や土塀の家々が連なっています。そのなかでひときわ白壁の美しい長屋門がほぼ当時のまま残っています。「鬼のいる風景12」でご紹介した金毘羅社などです。        (岡山県 高梁市 頼久寺 薬師堂大棟東 )

(岡山県 高梁市 頼久寺 薬師堂大棟西)

本町・大工町をはじめ、商家の町並み、石火屋町(石火屋丁)に残る武家屋敷の遺構、紺屋川の風景、上谷町の城郭を思わせる薬師院と松蓮寺(映画『男はつらいよ-口笛をふく寅次郎』のロケ地)の石垣など、城下町の遺産が凝縮されています。

 

鬼さんこちら 9 茨城県 結城市 弘経寺

弘経寺(ぐぎょうじ)は、1414年(応永21)嘆誉良筆上人によって開創された浄土宗のお寺です。ここは昔、下総国相馬郡大鹿村で、人家も無い山中に飯沼の弘経寺の隠居所として建立された草庵であったといわれています。

(茨城県 結城市 弘経寺 山門全景 )

浄土宗の関東18壇林(僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所)のひとつとなり、室町時代には関東浄土宗の中心寺院として栄え、多くの学僧を世に送った有力寺院でありました。家康の御朱印寺となったこの寺には、俳人「砂岡雁宕」の墓のほか,滞在時に書いた襖絵や句碑も残されています。県指定文化財として、絹本著色当麻曼荼羅、絹本著色襖絵(与謝蕪村筆)があります。          (茨城県 結城市 弘経寺 山門 大棟西 )

千姫の御殿を移築した壮麗な大方丈は1906年(明治39)に惜しくも灰燼に帰しますが、天樹院殿御廟(千姫の墓所)や遺品は、往時の風格をいまに伝えています。

         (茨城県 結城市 弘経寺 本堂南西1・2鬼)

寛永年間と天明年間の二度、諸堂を消失、その後もアジア太平洋戦争直後の昭和22年に不慮の火災により明治以前からの伽藍が一朝にして灰燼に帰しました。しかし檀信徒などにより、昭和24年に本堂兼客殿、昭和47年に新本堂、平成2年に鐘楼門、平成14年客殿、庫裡が復興しました。         (茨城県 結城市 弘経寺 本堂南西降り鬼)

境内には本堂、客殿、鐘楼門のほか英霊観音堂、大師堂、白山神社が建っています。夕焼け空を背景にした本堂の情景は極楽浄土を思わせるほど美しいと言われています。住んでいる鬼たちはみんな、昭和以降の生まれの若造ばかりです。             (茨城県 結城市 弘経寺 本堂全景)

なお「弘経寺」は茨城に3か寺あり、結城市のほか、取手市白山弘経寺、常総市飯沼弘経寺があります。

鬼さんこちら 8 愛知県稲沢市 青宮寺 飛び出す龍

青宮寺(せいぐうじ)に安置される木造聖徳太子立像は、県指定文化財として知られています。
南北朝時代〜室町時代初期の制作で、太子が病に伏した父・用明天皇の回復を祈る姿をあらわしています。像高78.3cm、髪をふり分け、美豆良を結い、衲衣に袈裟をかけ、柄香炉をとって立つ姿で、太子孝養像と呼ばれ、地域の子供たちの成長を見守る存在として信仰されています。

しかし、私が本当にびっくりさせられたのは、手水所の屋根です。

(愛知県 稲沢市 青宮寺 手水所 全景)

大棟の南北それぞれから、何と龍が空に向かって飛び出そうとしているのです。      (愛知県 稲沢市 青宮寺 手水所 大棟南 龍)          (愛知県 稲沢市 青宮寺 手水所 大棟南)

         (愛知県 稲沢市 青宮寺 手水所 大棟南)

こんなに大きく、しかもリアルな龍面文鬼瓦は、日本では他例がないでしょう。韓国の寺院には類似の龍がたくさんいますが、空に向かって羽ばたくほどの勢いを示してはいません。         (愛知県 稲沢市 青宮寺 手水所 大棟北)

(愛知県 稲沢市 青宮寺 手水所 大棟北)

日本の龍面鬼瓦は、それほどたくさんはありませんが、みんな、龍面を数十センチ角の中に押し込む形で巧みにデザイン化して、1の鬼または2の鬼として屋根の隅に載せていることが共通しています。
その型を完全に破って、龍を天に舞い上がらせようとするとは、何と大胆な造形でしょうか。これを製作した鬼師に、絶賛の拍手を贈ります。

鬼さんこちら 7 愛知県稲沢市 萬徳寺 牡丹寺

稲沢市の国府宮神社の近くの満徳寺(まんとくじ)は、700本の牡丹が多くの参詣者をひきつけます。稲沢駅から徒歩で10分のところです。     (愛知県 稲沢市 満徳寺 本堂 全景 南西から )

768年からの永い歴史をもち、東海三十六不動尊霊場にも数えられ、多宝塔・鎮守堂は室町時代のもので国の重要文化財です。           (愛知県 稲沢市 満徳寺 本堂 全景 )

称徳天皇の勅願によって慈眼上人が創建しました。その後、木曽川の決壊などにより本堂は荒廃し、834年(承和1)に弘法大師空海が当地へ巡歴したおり、真言の道場として再興、本堂の裏手に如意宝珠(霊験あらたかな宝の玉)を埋納したといわれます。空海が奈良県の室生寺と山形県の恩徳寺とともに三か所に如意宝珠を埋納されていることは広く知られているそうです。          (愛知県 稲沢市 満徳寺 本堂 大棟西 )

その後、寺は繁栄し、尾張国真言宗の本山と称し、53以上の末寺を持つほどになりました。
1967年(昭和44)、本堂は灰塵と化しましたが、秘蔵されていた多くの文化遺産は宝蔵にあり無事でした。萬徳寺の文化財は、国、県、市の指定は34点におよびます。

          (愛知県 稲沢市 満徳寺 本堂 東南1鬼)         (愛知県 稲沢市 満徳寺 本堂 東南降り鬼 )        (愛知県 稲沢市 満徳寺 本堂 南西1,2鬼)

清洲城の通用門(馬がけ門)を移築したという山門の前に、注目したい石碑があります。


1 牛馬を繋く事
1 魚鳥を捕る事
1 竹木を折採る事
右之条条於境内令禁止者也
愛知県 萬徳寺石碑

1904年(明治37)7月の愛知県の禁止令です。自然保護の先駆けでしょうか。

(愛知県 稲沢市 満徳寺 本堂 南西1鬼)

山門左手の森には、四国霊場八十八か所入口があり、奥に進むと第一番札所から順に石碑が設置されています。ここでお参りすれば、遠い四国まで行かなくても御利益があるとされます。1923年(大正12)に創建されたものです。